模様の哲学をめぐって──見ることと秩序のあいだで
サカイケイタ | 04 Nov.2025
私が「模様」(=error)[*1]という言葉について考え始めたのは、大学学部3年のころでした。素材を前にしながら、私はいつも「形とは何か」を問うていました。しかし、形をつくろうとすればするほど、私の関心はその境界線に向かっていったのです。形の外側、あるいは形を縁取るものとしての“線”(=面)。[*2]そこに、意味を持たないようでいて秩序を孕んだ「模様」の存在が見えてきました。
模様を考えるということは、単に美的な装飾やパターンを扱うことではありません。むしろ、世界がどのように「見えて」いるのかという認識の根源に触れる行為だと私は思います。なぜなら、模様とは、世界の表面にあらわれる“差異の分布”であり、それを認識する私たちの知覚の仕組みを映し出す鏡でもあるからです。私が模様に惹かれるのは、それが「見ることとは何か」という哲学的問いを、最も直接的に提示する表現だからです。
では、模様を考えると、どのような問題が生じるのでしょうか。第一に、「秩序と偶然」という問題です。模様にはリズムや反復がある一方で、完全な再現は不可能です。自然界の縞や斑点には、必ず微小なズレが存在します。にもかかわらず、それらは秩序として認識されます。ここで重要なのは、秩序とは外的な構造ではなく、「ズレを秩序として知覚してしまう人間の認識作用」だということです。つまり、模様を考えることは、人間の知覚がいかに曖昧さや誤差を内包しながら秩序を生成しているかを問うことなのです。第二に、「模様はどこに存在するのか」という問題が生まれます。模様は対象の表面にあるのか、それとも見る者の認識の中にあるのか。たとえば、都市の道路標識や警戒テープは、人間が情報を伝えるために配置した記号です。しかし、それらを長く見つめていると情報の意味は次第に薄れ、ただリズムと色彩の反復として立ち現れてきます。そこでは「見ること」と「読むこと」の境界が曖昧になり、記号が模様へと変化します。つまり模様とは、対象と認識のあいだに生成される関係そのものです。この認識論から考える模様は断定性から規定されるよな模様のあり方ではなくエラー的な事柄が隠されており、むしろその「エラー」こそが観念的な模様を生み出しているように思います。意味がずれ、形が途切れ、理解の手前で揺らぐ──その知覚の歪みの中に、思考の模様が立ち上がる。観念的な模様とは、完全に読めることのない思考の痕跡であり、見ることがつくり出す曖昧な秩序なのです。
少し強調したいのですが、多くの方は私の活動を視覚性に限定した問いとして受け取っているようですが、私が扱っている「見ること」の見るとは「読めてしまうこと」や「読めてしまったこと」[*3]──その事後の揺れや、読んだあとにしか現れない認識の“後ろ姿”のようなものについてです。見る以前、読む以前、しかし確かに“読まれてしまった”後の時間。そこに、模様が発生する。読めること、読めないこと、読めてしまうこと、その三つが交わる地点に、世界がひとつの表面として立ち上がるように思いますし、模様とは事後的認識からしか読み取れないのではないでしょうか。けれど、この“事後”という時間は、単なる過去ではありません。認識が終わったあとにも、私たちの知覚はなお世界を再構築(編集)し続けています。つまり、見ることや読むことは、過ぎ去ったものの中で新たに形を組み立て直す行為でもある。このように考えると、知覚とは受動的な記録ではなく、「構築的な活動」そのものとして立ち上がってきます。
メルロ=ポンティが指摘したように、私たちの身体は世界を受け取るだけでなく、常に世界を“組み立てながら”知覚しています。[*4]私はその組み立て(織)の痕跡が「模様」であると考えています。模様(織)とは、知覚が世界を秩序づけようとする瞬間に生じる、構築の表層なのです。
この理解は、やがて「(野)生の模様」という概念へと発展しました。自然界では、生物が環境との関係のなかで模様を進化させてきました。シマウマの縞や蝶の翅の模様は、単なる装飾ではなく、他者の視覚を欺き、生存を確保するための戦略です。模様とは、生命が環境との関係を“視覚的に交渉する”ためのメディアです。私は都市のサインや記号もまた、同じ構造を持っているのではないかと考えています。都市は、情報や秩序を保つために、人間が無意識のうちに生成した「人工の生態系」です。その中に現れる線やマークは、人間社会が自らの安全や効率を保つために編み上げた“人為的な縞”です。この視点からすると、都市の模様は生物の模様と同じく「環境への適応の痕跡」として読むことができます。そう考えると、人間の文化やデザインもまた、進化の一形態として理解することが可能になります。ここで生まれるのが第三の問題、「人工と自然の区別はどこまで有効なのか」という問いです。もし模様を「環境と知覚の交渉面」として定義するならば、人工も自然も区別できなくなります。両者は同じ「模様的現象」として、ひとつの連続面に置かれるのです。
そしてこの議論をさらに進めると、模様の問題は「存在とは何か」という古典的な哲学の問いに接続していきます。模様とは、存在が可視化される瞬間、つまり“在ること”が“見えること”へと変換される境界に現れます。言い換えれば、模様とは存在の表層的現象でありながら、存在そのものの運動を示す痕跡です。
模様を哲学的に論じることは、知覚・存在・意味といった古い問題群を新しい形で再考することでもあります。模様をめぐる研究は、芸術論にとどまらず、認知科学、進化論、記号論、都市論など、さまざまな分野を横断しながら、学問の境界を再編していくでしょう。なぜなら、模様とは「境界そのもの」を問題化する現象だからです。
私は、模様をつくることを通してこの世界がどのように“見えてしまう” ”読めてしまう”のかを探っています。そこでは、正しさよりも“揺らぎ”が重要です。見ることのエラー、秩序のほころび、意味の過剰──それらすべてが模様を形成する要素です。模様を考えるとは、世界を再び未知のものとして眺め直す試みなのです。
註
1.「模様」を pattern ではなく error と呼ぶのは、模様を完成された形式や再現可能な構造として捉えたくないからである。pattern という語は、反復・規則性・予測可能性を前提とし、あらかじめ成立した秩序の安定した表出を指す。一方、私が扱う模様は、秩序が成立する以前、あるいは成立しそこなう瞬間に立ち上がる現象であり、つねにズレや過剰、読み損ないを含んでいる。それは正しさからの逸脱ではなく、知覚や認識が世界を理解しようとする過程で不可避的に生じる誤差である。
2.「線(=面)」は、境界としての線と、造形行為としての面を同時に指している。彫刻を粘土で制作する際、形はまず面として立ち上がり、その面の切れ目や際がシルエットとして線に近づいていく。このとき線は、単なる輪郭ではなく、面が限界へと押し出された結果として現れる境界である。私はこの関係を、ティム・インゴルドの線の理論に基づき、線と面を対立項ではなく、生成の過程において相互に移行しうるものとして捉えている。そのため本稿では、形を囲い確定する境界であると同時に、面として作用する線の振る舞いを示すために、「線(=面)」という表記を用いている。
3.『LINE』作品においてよくリズム性を取り上げ、批評されることがあるが多くは視覚的運動や視線の流れといった表層的な快さを論じるための言葉にとどまっている。私が扱っているのはそのリズムが成立してしまう瞬間に生じるズレや、秩序として読まれてしまうことへの違和感であり、心地よさの側ではない。リズムとは結果であって目的ではなく、むしろその手前で起こるエラーや緊張こそが、私にとっての制作の場である。さらに言うと、私が「見ることとは何か」と問うとき、それは知覚を中立な状態へ戻すための問いではない。多くの作家が意味や制度から距離を取り、ものをそのまま見直そうとするのに対し、私はむしろなぜ私たちはものを意味として、訓練された記号として読んでしまうのかを問うている。見ることはすでに読むことであり、その事実から逃げることはできない。だからこそ私は、純粋な視覚を夢想するのではなく、読めてしまう知覚の癖や、その綻びがどのように立ち上がるのかに立ち会い続けたい。そこに現れるズレやエラー(遊)こそが、私の作品の出発点であり、他者との決定的な立ち位置の違いでもある。
4.モーリス・メルロ=ポンティは、知覚を主体が世界を受動的に写し取る作用ではなく、身体と世界が相互に絡み合いながら生成される過程として捉えた。彼が「交叉(chiasme)」と呼んだのは、見る身体と見られる世界、触れる手と触れられるものが入れ替わり、重なり合う関係そのものである。また「織目(entrelacs)」とは、その交叉が固定されることなく、絶えず編み直され続ける構造を指している。メルロ=ポンティが「肉(chair)」という語で示したのは、主体と客体、内と外を分ける以前の、知覚が生起する共通の地平である。本稿における模様(織)は、この肉の次元において、知覚が世界を秩序づけようとする瞬間に表層へと浮かび上がる痕跡として理解される。模様とは、意味や構造が完成した結果ではなく、身体と環境が交叉し、編み合わされるその途中に現れる、知覚の生成過程の表面なのである。