
サカイケイタ(美術家)
Keita SAKAI
アトリエにて──“風景のズレ”を彫刻する
静寂の中、木材を削る音がかすかに響く。床に散らばる素材の断片は、一見すると無秩序だが、サカイにとっては「構造の予兆」であり、「単位に還る未完の秩序」である。工事現場のシマ模様の写真、積み重なった板材、視線の先に浮かぶ無数の線。都市に埋もれた視覚の残響を拾い上げ、風景の裏側に潜む関係性を彫刻する——サカイの思考は、見えない“ズレ”の輪郭を追い続けている。


Profile
サカイケイタ Keita Sakai
武蔵野美術大学大学院造形研究科彫刻コース修了。ディスレクシア(識字困難)による知覚のズレを出発点に、「見る」という行為の構造や認識の誤差をテーマにした彫刻・インスタレーションを制作。都市の記号や模様を反復し、ズレや誤差を積み重ねることで新たな視覚関係を生み出すLINEシリーズや、光の屈折と揺らぎを探求するXシリーズなどを展開している。2020年、公益財団法人クマ財団のクリエイター奨学生として活動し、2019年CAF賞最優秀賞受賞、2023年Watowa Art Award 準グランプリ・鬼頭健吾賞受賞。中国、タイなど、国内外の展覧会にも精力的に参加している。2024年には建築漫画家のAKIRA ASHIMOとアーティストユニットBITを結成。主な展示に「COLORS-色彩変奏曲」(杭州)、「KUMA EXHIBITION2021」(東京)、「PLAY-Patapata Nurinuri」(広州)などがある。
——最近、何を考えながら制作していますか?
サカイケイタさん(※以下敬称略):
風景というものは、見えているようで見えていないものです。私は工事現場の黄色と黒のシマ模様を見て、そこに“都市の視覚的秩序”の断片を感じました。でも、誰もあれを風景として意識していない。風景とは何かと問われれば、多くの人は“目の前に広がる景色”と答えるでしょう。でも、私にとって風景は、視覚だけに依存するものではなく、触覚や記憶、文化的コードまで含んだ“知覚の構造体”です。つまり、風景は『見えているもの』ではなく、『関係として立ち現れるもの』なんです。
最近、特に意識しているのは、風景の“ズレ”です。私がLINEシリーズで試みているのは、都市の記号やシンボルを模様として反復し、視覚のズレを可視化すること。都市は無数の記号で構成されているけれど、それはただ機能的に配置されているだけじゃない。看板、標識、工事現場のシマ模様──こうしたものは、意識されないまま都市の無意識に刻み込まれている。私はその“見落とされたもの”を再構成することで、都市の知覚のメカニズムを問うているんです。
——工事現場のサインに着目したのはどういう経緯ですか?
サカイ:記号(sign)をモチーフにしたきっかけは、視覚伝達デザインで記号論、アフォーダンスの授業を受けたからなんです。デザインで扱う記号は一見、単純に情報を伝えるための装置のように見えますが、その背景には社会的なルールや文化的な文脈、さらには無意識のパターンが隠れているんです。特に都市空間の中では、標識や看板、道路表示といった記号は視認性を優先するあまり、個性や表現が排除された“無個性のデザイン”になっています。でも、それってデザインの究極のカタチですよね。記号の役割が“視覚の透明性”を求められるがゆえに、むしろそこに隠された“意味の層”に気づくと、僕はいつも『見えているのに見えない』という不思議な感覚に陥るんです。
大学生時代記号論を学んでいるうちに、サインや標識が持つ“機能的な意味”だけでなく、それらが都市の風景の一部として“表層的な記号”になっていることに気づいたんです。特に工事現場の黄色と黒のシマ模様は、視認性を最大化するために設計されたデザインなのに、繰り返し見るうちにそれが都市の無意識に刷り込まれ、風景の“背景”として知覚される。その時、僕の中で模様性をキーワードにサイン扱って作品が作れそうだなと思いました。面白いのは、視認性や警告色に関連するデザインは、自然界の動物の擬態模様と同じ効果を持っているということです。蜂の黄色と黒のコントラストや、毒ガエルの警戒色は捕食者への警告信号ですが工事現場のシマ模様も、都市空間の中で注意喚起の役割を果たしている。僕はそうした“機能的な色彩”(自然界から学ぶ色とかたち)が都市の風景の中で無意識のうちに風景の構造を作り上げていることに強く興味を持ちました。とにかく大学学部の時は、記号(sign)と象徴(symbol)の間にある“曖昧さ”に関心があり、人間が生み出してきた様々な記号の表層性、“薄さ”に惹かれて作品を作っていましたね。


——その視点からLINEシリーズが生まれたんですね。模様を反復するだけではなく、そこに生じる“ズレ”に注目しているのが非常に興味深いです。そもそも、サカイさんにとって“反復”とはどういう意味を持つものなのでしょうか?
サカイ:反復って、単に同じものを繰り返すことじゃないんです。むしろ、何度も繰り返すことで、隠れていた構造や、微細な揺らぎ、つまり“関係の変質”が立ち上がってくる。LINEシリーズで行っているのは、都市に溢れる記号や模様を「野生の模様」として見直すことなんです。都市の中にある看板や警告サインは、ただの人為的なグラフィックではなくて、ある意味、都市の生存戦略として進化してきた視覚言語だと捉えています。
——都市の模様を“野生の模様”として捉えるというのは新鮮な視点ですね。それはどういった感覚から生まれたのでしょう?
サカイ:シマウマの縞模様や毒ガエルの色彩が持つ「意味」って、まさに生物が環境と交渉しながら編み出した視覚的戦略ですよね。私は都市にある人工的な模様にも、同じような“環境との交渉”を感じるんです。たとえば工事現場の黄色と黒の縞模様は、ただの注意喚起ではなく、都市という生態系における“擬態”だと考えていて。そういった“人工的な模様の自然性”を視覚的に再編し、ズレを引き起こすことで、鑑賞者の中に認知の違和感──つまり“生の認識”を問い直すきっかけが生まれればと考えています。

——つまり、その違和感や“ズレ”は、ただの視覚的エラーではなく、認知の深層にある秩序を揺さぶるものなのですね。
サカイ:そうです。人間の認知って、常に“正しく見ること”だけを前提にしてはいないんですよね。反復によってパターンが生まれ、それが崩れるときにだけ見えてくる風景がある。私はその崩れの瞬間、つまり“ズレ”こそが、風景を彫刻する手がかりだと思っています。
——いまの話を聞いていて思ったのですが、サカイさんの作品には、生物の認知や環境との関係性への深い関心が感じられます。そうした視点は、例えばジェームズ・ギブソンの「アフォーダンス理論」とも通じるように思うのですが、ご自身ではどうお考えですか?
サカイ:アフォーダンスという概念に出会ったとき、それはまるで空間そのものが、形を媒介として“語りかけてくる”ような感覚に近いものでした。僕が扱っている模様やパターンも、単に視覚的な図像ではなく、身体を取り巻く“振る舞いの条件”のようなものだと思っています。
工事現場のシマ模様にしても、それは“見せる”のではなく“動かす”ことを目的とした構造です。注意喚起ではなく、身体の向きを変える、歩行の速度を変えるといった、環境から人間への物理的な提案。そのような構造に美術が介入する時、僕は“視覚彫刻”の概念に近づいていけるような気がしています。つまり、見ることが行為として再構成される空間──その編成の一部に、模様を据えているという感覚ですね。


——アフォーダンスが“環境と行為のあいだにある可能性”だとすると、動物の認知──特に“見ること”の構造も作品にとって重要なテーマになっているようですね。たとえば模様の役割や知覚の進化について、美術とどのように接続されていますか?
サカイ:模様というものには、明らかに進化の痕跡があります。生物が獲得した感覚的知能の結晶。それは、敵に見えないようにするため、仲間を識別するため、あるいは環境に対する防御として発現した“視覚の戦略”です。
僕は彫刻を、「見えることの限界線」を可視化するための行為と捉えています。つまり、それは単なる形の構築ではなく、“感覚の制度化”を一度剥がすような身振りでもある。
都市にあふれる記号、標識、矢印、色分けされた床材──それらはすべて、視覚を通じた身体の交通整理であり、生き延びるために設計された人工的な“模様”です。僕のLINEシリーズやXシリーズは、それらの構造を一度“遊び”の空間へ引き戻すことを試みています。
そのなかで僕が関心を持っているのは、“錯覚”ではなく“知覚の潜在的な変調”です。それは人間の認知が持つ、生物的なノイズ──つまり、誤差としての自己。その不確かさに触れたとき、風景ははじめて“知覚される”のではないかと考えています。

——サカイさんにとって、彫刻における「記号」とは、どのような意味を持っているのでしょうか?以前、戸谷成雄さんが大学院の講評で話された「契約の問題」が強く印象に残っていると伺いました。
サカイ:はい、戸谷さんが言っていた「契約の問題」という言葉は、いまもずっと、頭のどこかに引っかかっているんです。人とモノとのあいだには、私たちが生きていくうえで当然のように前提としている“関係の前提”がありますよね。椅子は座るもの、看板は示すもの、矢印は進む方向を教えるもの。でもその関係性は、本当に「自然な」ものなのか、あるいは「合意されたもの」にすぎないのか。
その講評のとき、戸谷さんが言っていたのは、「彫刻とは、その契約に触れることだ」といったことだったと思います。
以来、私は“見る”ということの中にある、目とモノの間の無意識的な契約をどう揺るがせるかということをずっと考えているんです。
とくに私にとって記号は「意味を伝える道具」ではありません。むしろ、記号をそのままにしておきながらその意味作用だけを切断し、別の文脈に接続していく作業が重要だと考えています。
つまり、「記号を記号のままに別の記号にしてゆかねばならない」という姿勢です。
たとえば工事現場のシマ模様──それは注意喚起のサインとして、機能性という契約に囚われています。でも、私がそれを模様として扱うとき、それは「何かを警告する模様」ではなく、「意味が浮上しそうで浮上しきらない、関係の裂け目」として振る舞いはじめる。言い換えれば、意味の残骸をまとった輪郭が、別の場で別の振る舞いをしようとするわけです。
私はそれを「記号の彫刻」として捉えています。
彫刻はモノの造形だけではなく、「記号の可塑性」に触れることができる。つまり、固定された意味をもったものの“縁”を少しほぐし、異なる意味のネットワークへと滑り込ませる。そういう、知覚と言語のあいだの空隙に働きかける彫刻のあり方を、ずっと模索しているのだと思います。

——制作プロセスではどのようなことを意識していますか?
サカイ:私は制作の過程を“編む”ような感覚で捉えています。木材やアクリル、プリント素材などを使って、異なる素材同士の関係性を編み込んでいく。斎藤義重の『複合体』シリーズが私に強い影響を与えたのは、彼が“作品が最終的にバラバラな板切れに戻る可能性”について語っていたからです。彼の作品は、完成品としての固定性を拒否している。私の作品も、ユニット(単位)がバラバラになったり、再構成されたりすることを前提としています。
「例えば、私のXシリーズでは、作品が一度バラバラになっても再構成できるように設計されています。作品は固定された完成形ではなく、むしろ『途中の状態』なんです。私にとって作品は、“完成している”のではなく、“関係が持続している”もの。その関係性の中に風景が立ち現れるんです。

関係性の網目としての風景
都市の記号と視覚の構造を読み解く
——風景論における“関係性”とはどういう意味でしょうか?
サカイ:風景とは、単に“見えるもの”ではなく、“関係の網目のなかに生成されるもの”です。例えば、工事現場のシマ模様は単独では意味を持たない。しかし、都市の中に配置されたとき、それは秩序を示す記号として働きます。つまり、風景は“配置された関係”によって生まれる。風景を認識するという行為は、無意識のうちに“意味を編み直す”ことに他ならないんです。
この関係性を考えるときに思い出すのは、ロダンの《地獄の門》です。あの作品では、個々の人物像──たとえば《考える人》や《ウゴリーノ》──が一見すると独立した彫刻作品のように見えますが、実際には“地獄”という一つの空間の中で、全体と部分が絡み合って関係を構成しています。ロダンの凄みは、部分を極限まで掘り下げつつも、それを超えた関係のネットワークを浮かび上がらせていることです。私は、都市の風景もこれと同じだと考えています。看板、標識、工事現場のシマ模様──それぞれが独立して存在しているようでいて、関係の網目のなかで風景のリズムを生み出している。

——なるほど、ロダンの話は面白いですね。サカイさんはアッサンブラージュという手法にも関心がありますか?
サカイ:ありますね。アッサンブラージュは、まさに“関係性”を可視化する手法ですね。ジャン・デュビュッフェやロバート・ラウシェンバーグが行ったように、異質な素材や既製品を組み合わせ、そこに新たな関係性を生み出す。私が興味を持っているのは、そのプロセスの“ズレ”です。異質なもの同士が接続されるとき、そこには“間”が生まれます。その間こそが、風景を編み上げる無意識の織り目なのではないかと思うんです。
ロダンの《地獄の門》における関係性も、個々の人物像がバラバラに存在しているわけではなく、“全体”の文脈のなかで互いに呼応し、干渉し合っている。その関係性の“ズレ”こそが、あの作品に“見えざる風景”を立ち上がらせているんです。これは、私のLINEシリーズにも通じるところがあります。工事現場のシマ模様や都市の記号は、一見するとバラバラに散在しているようですが、実際には都市の“無意識”を編み上げる一つの織り目になっている。その織り目にズレを生じさせることで、私は新たな風景を引き出そうとしているんです。

——最近の制作では、言語の「ズレ」を意識することが多いと伺いましたが、その背景にはどのような気づきがあったのでしょうか?例えば、言語のズレや誤作動は単なるミスや認知のエラーではなく、むしろ“無意識の文法”のように、ある種の見えないルールが作動している気がしますよね。以前、岡﨑乾二郎さんが『感覚のエデン』で、モンドリアンの絵画における線のズレを“視覚の倫理”として捉え、線が空間のリズムそのものを変質させていると語っていました。それを読んだとき、私はサカイさんの作品にも同様の“ズレの倫理”のようなものを感じたんです。
サカイ:ああ、その“ズレの倫理”という視点は、すごく腑に落ちますね。僕自身、日常の言い間違いや読み違いに敏感なんです。たとえば、舞台のアンケート用紙を渡すときに『インタビューです』って言い間違えたことがあって(笑)。でも、こういう言葉のズレって単なる間違いではなく、言語の裏側にある“見えない構造”がふっと顔を出す瞬間だと思うんですよね。そういう瞬間に、僕はいつも『あ、今何か起きた』って感じるんです。
「言葉って、単に意味を伝達するだけじゃなくて、無意識に“ズレの余白”を内包しているじゃないですか。たとえば、僕が“カレーのスプーンを取って”って言いたいのに、なぜか“フォーク取って”って言っちゃう。これって、単に単語の入れ替えじゃなくて、僕の脳が“ステンレス製で食べ物をすくう道具”っていうカテゴリでまとめて処理しているわけですよね。でも、それをフォークとして出力する。このズレって、ある意味で“思考が物質化する過程のほころび”なんです。
だから、僕が作品で扱っているのは、こうした“ズレが生む関係性”なんですよ。LINEシリーズもXシリーズも、パターンや模様を反復させながら、視覚のリズムを少しずつ変調させていく。でも、そこで生まれるのは単なる視覚的なエラーじゃなくて、“認知の裏側”にある無意識の構造が立ち上がる瞬間だと思っていて。
——なるほど。その“認知の裏側”にある無意識の構造というのは、言語の枠組みを超えた関係性のズレのようにも感じますね。以前、青山で行われた『sequence-手とルールの輪郭実験1』でも、サカイさんは“線”を単なる視覚的な軌跡ではなく、“関係を編む装置”として扱っていましたよね?
サカイ:そうです。『Sequence-手とルールの輪郭実験1』では、ティム・インゴルドの『ラインズ 線の文化史』の影響がかなり大きいんですよ。インゴルドは、線を単なる記号じゃなくて“世界を編む関係性そのもの”として捉えていますよね。僕も、線を“関係の痕跡”として扱いたかったんです。つまり、線は物質の輪郭を規定するだけじゃなくて、その線自体が時間や関係の流れを引き受けている。だから僕は、あの展示で“手の動き”と“ルールの逸脱”を意識的に重ねたんです。
線って、規則的に引かれるときは“秩序”を表しているように見えるけど、ちょっと逸れたり、反復のリズムがズレると、そこには“関係の変質”が生まれる。僕がLINEシリーズでやっているのも、まさにそのズレなんです。反復によって視覚が固定化されるかと思いきや、ちょっとしたズレが全体の意味を変えてしまう。ある種の“ゲシュタルト崩壊”に近い感覚ですね。

——その“ゲシュタルト崩壊”の話、すごく面白いですね。しかも、サカイさんの場合、その崩壊は“ズレ”の瞬間に発生しているわけですよね?でも、単なるズレではなく、それが関係性の転倒や、認知の再構築につながっている。例えば、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン作品にも似た反復の構造がありますが、サカイさんはその反復の“間”や“余白”に注目しているようにも思えます。
サカイ:そうなんです。ウォーホルの場合、反復によって“意味の消失”を起こしていますよね。でも、僕がやっているのは、その反復の“ズレ”が新しい関係性を立ち上げるところなんです。たとえば、僕の作品で、同じ模様を何度も繰り返しているうちに、途中で模様が“別のもの”に見えてくる瞬間があるんです。それは単なる錯視じゃなくて、“意味の揺らぎ”が視覚に現れているんじゃないかと。
僕が最近考えているのは、このズレが“言語の構造”にも応用できるんじゃないか、ってことなんです。言葉って、本来は意味を固定するものだけど、実際には“音”や“形”のズレによって全然違うイメージが生まれるじゃないですか。たとえば、『人への恐怖心のある子』を『一重の恐怖心のある子』って読み間違えたことがあって(笑)。これって、単なる誤読じゃなくて、僕の脳が“意味の関係性”をどこかで混同している証拠なんですよ。

——つまり、サカイさんの作品では、視覚のズレだけでなく、言語のズレや誤読による“意味の転倒”まで作品の素材になっているんですね。それは、もはや“ズレ”そのものが、作品のコンセプトを超えた“存在の構造”に関わっているということでしょうか?
サカイ:そうですね。僕がやろうとしているのは、単にズレを可視化することではなくて、“ズレが生まれる前の関係の揺らぎ”を掬い取ることなんです。言語のミス、視覚のエラー、素材のバラバラさ——それらすべてが、ある種の“関係の誤差”として、未分化な状態で漂っている。僕は、その未分化な状態にこそ“彫刻の根本”があると思っています。
結局、僕にとって彫刻って、形や物質の問題ではなく、“関係をどう組み直すか”ということなんですよ。だからこそ、次のXシリーズでは、さらに光や模様の関係性を探ることで、ズレが生む“未完の風景”を浮かび上がらせたいと思っています。

——つまり、サカイさんの目指しているのは、ズレによって“見えなかった関係”を編み直し、未分化な風景を立ち上げることなんですね。では、Xシリーズでは、その関係性のズレがどのように展開されていくのでしょうか?
サカイ:Xシリーズは、光そのものの“揺らぎ”を扱おうとしています。これまでは模様の反復でズレを可視化してきましたが、今回は光の反射や屈折によって、視覚の中で模様が変質する様子を捉えたいんです。つまり、模様が固定される瞬間ではなく、“光と影の関係性がずれ続ける瞬間”を作品に落とし込みたい。そこには、線の文化史で語られる“線の関係性”とも通じる新しい風景の生成があるはずなんですよ。
——サカイさんの線のお話を聞くと、ペインターが考えるドローイングなどの線、輪郭の話とは異なりる次元がありそうですね。二次元と三次元を行き来しているような感じでしょうか?ぜひ「命がけ」の作品について教えてください。
サカイ:命がけは、